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思無邪〜偽典・鬼哭街〜

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  第二夜 雨来遊女記  

「遅いな…確か今日だった筈だが」
上海・浦東の中でも歓楽街に近い場所に構えられた私邸の一つで<金剛六臂>は自身の巨躯を持て余し気味に部屋の中央で直立していた。外の憂鬱な雨天は無機質な垂簾と雨戸を思わせる外壁によって遮断されているのだが、それでも<金剛六臂>樟賈寶は絶えぬ雨に不愉快な表情を浮かべつつ聞こえない雨音を疎み、晴れ間の見えない天上を機械の眼で藪睨みして、垂れ込めた暗鬱な頭上の空に抗わんとしていた。
自身の肉体を可能な限り機械化し超人的な身体能力を手に入れる外家の手法を最大限駆使 した鋼の巨躯には無骨で重厚な筋骨が絶えず浮かび上がっており、<金剛六臂>の二つ名 に相応しい剛力を外見から容易に想像させる。

<金剛六臂>。青雲幇の中でも特に最上位の権力者に位置する五人の香主の中の一人。彼が主に取り仕切るのは歓楽街の流通に関わる表裏全般、早い話が電脳娼館の主にして電脳麻薬の流し屋と云うこと。傍目には汚れ役に見えるがこの街は人が住まうには余りに高密度で膨大、繁栄の直中にある街区は下手な巨大都市軍も斯くやとばかりに膨張しており、その巨大な売春街区を時には力で支配・管理する存在は不可欠である。
自分の持つ外功の暴力を「必要に応じて」発散出来、且つ既得権益を存分に行使し最新鋭の歓楽を享受出来る地位、そう考えれば自らの地位も適材適所か。

   *   *   *   *   *

話を少し戻すが、彼が「遅い」と苛立っている原因は今日納品予定の電娼の到着が予定されていた時刻より相当に遅れていることにあった。事前の伝聞に拠ればかなり高度に人間 的な言動処理が可能と云う事だが、今の樟賈寶にとってその仕様には眉唾物な印象がある。
媽祖。青雲幇、正確には劉豪軍から彼個人に与えられたこの世に五体しかない特殊な電娼。 或る娘の魂・意識を電子化し封入した「彼女」を一度試しに犯ってからというもの、既存 の電脳娼婦では全く満足できず事或る度媽祖を弄び貪るようになった。生身の女のように 力加減で神経質になる必要もさほどなく、かと言って生気の抜けた眼差しを向けられて萎 えるようなこともない。人間の生っぽい挙動をごく自然に向ける理想の玩具、それが媽祖。 そんな電娼を所有している身となっては、ここ最近の機械人形の常套的な売り文句「人間 的な言動」というのも好い加減空々しく聞こえて仕方がない。

一頻り情欲を吐き出した後寝台でぐったりして動きを止めたままの媽祖を横目で一瞥して薄ら笑いを浮かべたところで、視覚と接続された私邸の監視端末から人型の動体が確認された。視覚拡大、女と思われる人影。更に拡大、見覚えのない済ました顔つきと姿、着衣に激しい乱れがある。
「まさか、あれが…」
嫌な予感が過って毒づいた次の瞬間、樟の私室の照明が数瞬明滅を繰り返したところで完全に落ちた。この邸宅に限って停電など起きる筈はない。にも拘らず部屋の照明はおろか私邸全体の電子機器の悉くが突然訪れた暗闇を契機に反応を返さなくなった。 今しがた監視端末で確認した着衣の乱れた女と何か関係があるのか…念のため樟は自身の 視覚・聴覚記録を全て当たり該当者がないか確認を取りつつ、来客が招かざる者である場 合に備え両の拳に力を篭め漆黒の私室の中央に仁王立ちした。


樟と媽祖の微かな息遣いだけが漏れる静寂の空間の中に、不意に重い足音が響いた。相変わらず部屋の中に光源はないため足音の主の姿は朧げにしか見えない。微かに見える輪郭 と背丈から察するに人間の女性と思しき侵入者が現れたようだが、その外見と重い足音が一致する可能性は…
「お前、今日届く筈だった電脳娼婦…じゃあないよな?」
樟が落ち着いて声を向けると、仄暗い闇の中の輪郭から声が返って来た。涼やかな声、落ち着き払った声。
「……貴方が、樟賈寶ですね」
凡そ樟の知り得る電脳娼婦からは奏でられる事のない歌うような声。如何に媽祖が人間の情動を生き写しにしたと言えども、今目の前にいる「敵」の声に比べれば其れさえ紛い物と言わざるを得ない。
「もし仮に人違いだったとしても、この俺の家に侵入した輩を生きて返す気はない」
樟賈寶は文字通り鋼で鍛えた全身に力を漲らせ胸を張り地を踏む足に力を篭める。大抵の相手はこれだけで戦慄の余り戦闘不能に陥るか、死を覚悟して自暴自棄な特攻に出る。
今までの経験と自信を滾らせて眼前の賊に機械の半眼を向けた…しかし、「彼女」は全く怯むことなく涼しい顔で直立し、自身の眼前で鞘に収めた日本刀という殺意の白刃を翻し悠然と身構える。暗闇の中で瞬間、光の太刀筋が翻った錯覚を覚える。
「声紋データ照合…やはり貴方が樟賈寶ですね」
戦意を向けて威嚇しても尚刀を抜く相手。重い足音。この緊迫した状況で「データ照合」といった奇異な発言。樟の中で簡単に結論が出る。目の前の刺客は人間ではない。
「だとしたら、俺に何の用だ? 生憎機械人形に殺られる趣味は持ち合わせてないぞ」
「貴方になくても、私にはあります…青雲幇に匿われた『始祖』の事で」
部屋の照明は予備電源に切り替わる事なく目の前は仄暗い闇に包まれたままなのに、樟には目の前の賊が「嘲った」ような錯覚を覚えた。
見透かしたような落ち着き払った口調、何らかの手段で部屋の照明・防犯を悉く無効化した手腕。外国の裏社会の連中が飼い馴らしてるような殺人人形とは訳が違うようだ。だが。
「…俺にモノを聞く時は、口じゃなくて拳を使いな、この木偶!」
重厚な鋼で築き上げられた<金剛六臂>の右腕が正拳突きと共に咆哮を挙げ、暗闇に溶け込んだ「人形」に向かって容赦なく叩き込まれる。人間の眼はおろか機械の眼を以ても速度を見極めるのは困難な一撃、人呼んで【丹鳳朝陽】。其の一撃の破壊力は樟の性格や動作から重戦車の砲撃に例えられる程であり、実際彼が眼前に放った【丹鳳朝陽】は私邸の玄関近くまでを派手に粉砕し外の仄暗い外気と陰鬱な雨音を嫌が応にも呼び込んでいた。

   *   *   *   *   *

しかし。吹き飛ばした外壁から微かに漏れた薄明かりが見せる眼前には、渾身の一撃を放った右手の上に立つ軍服姿の少女、友永遥香の姿が映し出されてた。
「お前は……そ、そんな筈があるか!」
少女の姿、少女の顔。樟賈寶の機械の視覚が自身の記憶から一致するものを呼び出した。「彼女」は既に機能を停止して誰も触れる事のない場所に「封印」されている筈の存在、にも関わらず眼前で日本刀を持つ少女の姿は、紛れもなく「彼女」のものだった。
樟の微かな表情の変化を目聡く読み取った遥香は、冷然とした視線を直接向けて先程までより更に涼やかな抑揚の抑えられた声で、
「…どうやら、私の姿に思い当たる節があるようですね」
彼女が「私の姿」と言葉にした時、微かに眉を顰めたことに樟賈寶は気づいただろうか。
「フン、『始祖』の似姿なぞ作って寄越すとはな……お前は何処の連中の差し金だ?」
機械仕掛けの少女を巨大な鋼の右手に乗せたまま、微かに嫌悪感を滲ませて質問を吐き捨てた。漆黒の軍服に身を包んだ遥香は静かな憤りの表情と哀しみの瞳を向け、
「私は私の意思でここにいます。…誰かの命令ではなく」
「機械兵器にしては上等な冗談だな。お前の手向けにひとつ笑ってやった方がいいか? それとも…」
次の言葉が継がれる寸前、遥香は樟の手の上で膝を曲げ軽やかに天井へ舞い上がった。遥香が高さにして彼女の半身程跳躍した瞬間、彼女が立っていた場所に左の穿ち手の残影が奔ったものの空振りに終わった。常人の世界ではこの時点で遥香の勝ちと云えただろうが、機械の体で自身の肉体と知覚を拡張し進化させた外功の使い手たる<金剛六臂> には人間の限界を超えた速度で次の手が繰り出せる。寧ろ素直に跳躍した遥香の回避こそ命取りと言えよう。
「俺の本気でお前を粉微塵にしてやった方がいいか! この亡霊が!」
自分が宅内にいることも構うことなく、<金剛六臂>の両の拳は唸りを挙げ間髪入れず縦横無尽に空中の遥香の姿に向け叩き込まれる。加速を重ねた鋼の拳が空を焼き天井を砕いた。しかし、樟賈寶の拳には『始祖』の残骸は掴み取れていなかった。

「ちっ…躱したか。……ん?」
ほんの一瞬、樟の視界に砂嵐が紛れたような感覚が現れた。先刻監視端末と知覚を接続した際にも見えた気がしたが、それと何か関係があるのだろうか。自分に限ってないとは思うが、こうした細かい手落ちで敵に斃されるのは御免だ。念の為監視環境との接合を絶ち周囲を窺う。知覚の機械化・監視端末の視野との接合に拠る恩恵は失う事になるが、それでも自分には鍛え抜き鋼鉄で強化したこの肉体と北派少林の技がある。数刻の後に床に臥すのは間違いなくあの『始祖』の亡霊だ。
「何処を見ているんですか……<金剛六臂>」
背後から少女の声。忌々しい機械の亡霊。全機能が沈黙してなお『始祖』と呼ばれ厳重に封印されている<巨大電脳災厄>の主と、瓜二つの姿形を有する少女。
違う、背後の声の主は単なる似姿、『始祖』其の者である筈がない。あの木偶は自身を 「オシリス」と称するでもなく、「友永遥香」と称するでもない。ならば、<金剛六臂>の手腕を以て沈黙させるなど容易い筈。

意を決して振り返りざま声のした場所へ一撃。感触は今まで同様渾身の一撃。しかし。
「なっ……ば、馬鹿な」
曲肘の剛拳は少女の手にした日本刀で造作もなく受け止められていた。そんな筈はない。有り得ない。この一撃で刀か、少女か、或いは両方が拳圧と衝撃で破砕するのが物理の定め。人間の域を超えた超速と剛圧、例え眼前の少女が頑強に構築された機械兵器だと してもこの樟賈寶の一撃で屠り去れない者はない。
しかし、少女は事も無げに受け止めた拳を払い落とし続けざま軽やかな一閃を見せた。 その時樟の機械の助けを借りた視界は不意に砂嵐混じりの世界、低速再生の映像の世界へと堕ちた。

   *   *   *   *   *

片や時間と速度と色彩とが激しく歪曲され全ての挙動が緩やか流れる視野の中で、片や全てが正常な人間の肉眼による視野の中で、樟賈寶が目にしたもの。
それは漆黒の軍服と鋭い残線が自分の視界の中心で幻惑的かつ清冽な舞を踊る姿。流れ落ちる柔和な銀色の柳髪、強い意志の篭められた濃赤色の瞳、迷いなく鋭く振り上げられる斬鉄の刃、軍服に収められた優美で豊満な曲線が描く躍動の絵。
砂嵐で乱れた樟賈寶の視界の中で、少女の乱れのない一挙手一投足が一枚一枚連続写真の如く展開している。一方で鋭く振り翳された斬線の矛先は見えている。なのに。
「……」
視覚と聴覚の時間軸が伴わない少女の演舞を眺めながら、樟は自分の右手首から先が宙に撥ねられ斬り落とされたのを不完全に知覚した。左目の像と右目の像の時間軸が一致しないものを同時に流されたせいか、樟の眉間に痺れにも似た痛みが走った。
「……何が起きてるんだ?」
「ちょっとした小細工…機械の体を持つ貴方だから通じた小細工ですよ」
少女が腕と刀を下ろし険しい表情で見上げている。彼女が動きを止めたことにより時間軸のぶれは止まったが半眼ごとの色彩のずれは次第に強くなっていく。機械の眼が光と闇の差異を判別できなくなり、機能を失いつつある。まさか、眼の前の少女が?
「…漸く気づいたようですね。そう、貴方が警備システムと自分の知覚をリンクした時に『蟲』を送り込んだんです。機械を蝕む『蟲』を、ね…」

少女の涼やかな一声一声が、一々癪に触る。眼の前で悠然と直立する少女に、今の今まで何故拳を振り上げなかったのか。樟賈寶の中で沸々と怒りが呼び覚まされる。
「ふざけるな…俺は青雲幇の五香主が一人、<金剛六臂>だ」
両の手足に力を篭めて。静かに怒り、静かに構え。
「その程度の小細工で、」
両腕を持ち上げ腋を締め、今まで敢えて繰り出さなかった真打ちを思い描き身構える。
「貴様のような小娘に、好きにされるこの躯ではないわ!!」
双手から豪速で放たれる桂拳、蓋拳、劈拳、抛拳、横拳…眼の前の『始祖』の似姿を消滅すべく炎熱の連撃、【阿修羅憤怒弾】。少女の立ち位置に容赦なく放たれた秘奥の拳 は天井を、床を、部屋の内壁を、非情に壊し燃やし砕いていった。今度こそ間違いなく忌々しい災厄の種の生き写しは粉微塵、否、跡形もなく焼失している。何より両の拳が手応えを返してくる。先程の空を斬ったか本体を叩いたかも曖昧な攻撃とは違う。 確かに今、<金剛六臂>が拳は侵入者を粉砕している。その筈であった。しかし。

「何……!?」
爆速の剛拳が動きを止める。自らの連撃により少女を中心とした部屋の調度や内壁が激 しく打ち崩されているにも関わらず、己の眼前には相変わらず漆黒の軍服に身を包んだ少女が強い意志を宿した瞳のまま健在だった。例え相手が上海義肢公司ご自慢の精巧な殺人人形であろうと、この<金剛六臂>の放つ拳の熱波を耐え抜く存在など有り得ない。 だが、目の前の少女は、『始祖』の似姿を持つ少女は間違いなく己が眼前にいる!

   *   *   *   *   *

少女の手で熱く滾る赤熱の日本刀は空を灼き熱気を放ち微かな高音を響かせているものの、姿形を崩すことなく少女の手に収まり彼女の片手の構えに従い切っ先は樟賈寶へ真直ぐ向けられていた。
「日本の諺に、こういう言葉があるのをご存知ありませんか…『柳に風』、何事も剛直を叩き付け、力任せに押し通すだけで推し進められるとは限りませんよ」
真直ぐ伸ばされた右手に収まる灼けた刀。折れるでもなく溶けるでもなく、静かに空を灼きつつも自らが元来持つ鋼の姿を堅持したまま遥香の手中に納まっている日本刀。 部屋の電気照明が落とされて赤熱する刀身だけが薄明るい明りを放つ空間。真っ直ぐ翳されていた刀が揺らぎ動きを見せた瞬間、赤熱の斬線が指揮棒宜しく少女の右腕に拠り舞い踊る。

一つ、遥香の右下から袈裟斬りに駆け抜け。
一つ、続けざまに天から真下へ振り下ろされ。
一つ、地面に対し平行に円を描いて薙ぎ払われ。

部屋の照明が耳障りな音を立てて復旧した途端、両者の姿が視界に収まる。
遥香は両手に刀を握り右から水平に振り抜いたまま屹立し、樟賈寶はその巨体を遥香の立ち位置に移し、それぞれ次の挙動を見せず地を踏んでいる。

先程の連撃によって撃ち飛ばされあらぬ壁へ叩き付けられた寝台の陰からその様を見守る媽祖が、機械仕掛けとは思えぬ仕草で息を呑んだ。自らの存在を殺すように、二人の乱闘に自分の存在を介入させないように。
戦意に充ち静かに屹立した両者に変化が現れたのは、皮肉にもその密やかな息遣いの後。

   *   *   *   *   *

激しい乱撃の狭間に訪れた数秒の静寂を破ったのは、重厚な金属の落下音。
見れば<金剛六臂>の右腕の肘から下が全き綺麗な斬線によって消失させられていた。今し方重厚な落下音や破砕音を響かせ床に突き刺さったのは、その右下腕部の残骸。
予想外の出来事に息を呑んだ媽祖は音を立てぬよう身を縮め刀を軽やかに振り翳す少女から無意識のうちに身を隠し、当の腕を切り落とされた本人樟賈寶は数呼吸の間只呆然と剛拳の失せた右腕を見つめていた。
「どうして貴方達人間は、自分の美点を直視しようとせず機械の合理性に羨望を抱くのかしら? …どうして、自分の肉体を改造などするのかしら?」
重い響きを含ませた敵意のある声が樟に対し容赦なく投げかけられる。最初の優しく涼やかな声とは対照的な、しかし機械の持つ無機質さを強く感じさせる声色。
声の主、友永遥香は敵に背を向けたまま言葉を続けた。
「道具として機械を産み出しておいて、機械を機械のまま弄ぶだけでは飽き足らず、今では人間と機械の混合物にまで手をかける…つくづく、人間というのは傲慢な生き物なのね」
突然遥香が向き直る。その相貌に浮かぶのは冷酷な愉悦の表情。柔らかく端正な顔立ちには凡そ似合わない、殺人的な歪み。雨の中自らの剣戟に嘆きを漏らしていた彼女とは別人のように見える彼女だが、両手に刀を持つその構えは一分の隙も作っていない。

「フン、笑わせるな」
重圧の篭った声を発し憤怒の面で屹つ<金剛六臂>、残る左の機械の拳が軋みを上げ潰れんばかりに握られていた。続き、その拳を振り向きざまに振り下ろしながらの絶叫。
「機械の木偶人形の分際で、俺達人間様に仁義を説くつもりか貴様ぁぁぁぁっ!!」
左の拳と腕から次第に充ちてくる灼熱。全き鍛錬から産み出されている剛直な拳撃。
その重厚で音速超宛らの攻撃により切り裂かれ吼え猛る空気、それら全てが樟賈寶の憤怒と絶叫を載せて『始祖』の似姿を殲滅せんと叩き込まれる。

筈だったが。 拳を床に叩き込んだ瞬間、「木偶人形」の姿は<金剛六臂>の右側の壁を蹴り返し、そ の反動で彼の逞しく鍛錬され鋳造され調律された上半身へと肉薄していた。
そしてその姿を樟が視認した瞬間、彼の視界は乱暴に舞い上げられ回転し続けて自分の意志とは無関係に自由落下に身を任せ始めていた。
鈍色に光る日本刀を手にしたまま樟賈寶の右肩を踏み鮮やかな宙返りを見せる遥香、手の日本刀は汚れた濃赤色の液体に濡れており、刃先の滴一つ一つには樟賈寶が生涯中に 傷付け、犯し、消してきた存在が浮かんでは消え浮かんでは消え、最後には眼前で舞う 遥香に焦点が戻る。宛ら空の下軽やかに舞う蝶の姿。
気付いた時には、彼の頸自体が遥香の空中演舞の最中に鮮やかに斬り落とされていた。

   *   *   *   *   *

息を潜め寝台の隙間に身を潜める媽祖に向かって少女の姿にしては重厚な足音が向かって来る。頑健な軍靴だけがその足音の理由ではないようだが、媽祖には知る由もない。 媽祖は只、確実に自分に向かって近づいてくる赤黒く汚れた漆黒の軍服の少女の存在に怯え震えた。媽祖を観るものには人間の恐怖を思わせる仕草だが、彼女自身の内部では 「恐怖」という記号は生み出されていない。ただ、自らの材料=「人間の頭脳の電子化情報」の一部の一部が促すままに表現しただけ。
媽祖との距離が丁度あと一歩になったところで少女は脚を止め屹立し、最初彼女がこの部屋に訪れた時のような澄んだ涼やかな声を奏でる。
「……私が生まれてこなければ、貴女の様な悲劇的な存在も、貴女の『兄さん』のような復讐に命の灯火を費やす人間も、存在せずにすんだのでしょうか…」
嘆きながら優しく頬を撫でる少女の姿を見てから、暫く媽祖の視界は暗転した。

少女の残した言葉を音声として認識し終えた時、媽祖が知覚できる領域に友永遥香の姿は既になかった。ただ、遥香が残した戦闘の跡と樟賈寶の遺骸、それから乱闘の末半ば崩壊し火の手が上がり始めた彼の私邸と自分の存在だけがその場に残されていた。
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