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作:でかい水たまり
思えば貴女も若かった
☆競作SS展示場
(2)雨宿り
☆競作SS(第一回)
 
競作SS「思えば貴女も若かった」/作:でかい水たまり
 



「あら、白銀に鑑。よく来たわね」
「別に好きで来たわけじゃないんですけどね」
「先生、まりも先生から頼まれてプリント持ってきました」
「ああ、その辺置いといて。それよりアンタら、なんか飲む?」
「いえ、もう帰るとこなんですが」
「いいからちょっと寄ってきなさいよ。コーヒーでいいわね」
「え?」
「いやだから……」
「いいからいいから。ちょっと面白い話とか、聞かせてあげるわよ」
「先生……」
「何?」
「暇なんですか?」
「放っときなさい」


























































































<物理準備室より>


ま、誰にだってある、ちょっとした恋の話よ。昔のね。
ああ、断っておくけど、あいにくわたしのじゃないわよ。
ま、そうねぇ。
愛と勇気のおとぎ話の前にあったのは、
なにもあんな鬱々とした話だけじゃないってとこかしら?
ん? 意味が分からない?
そもそもこの話だって鬱々してる?
ああもう、うるさいわねぇ。細かいことは言わないの。
えっとね、あれは―――

思えば―――


























































































<過去について>







「あ〜ん。どうしよう…………」


折れた傘を持って。
やや濡れた体で、彼女―――神宮寺まりもは、外を眺めていた。


雨はまだ降り続いているが、風は止んでいる。上空から間断なく落ちてくる水の粒は、髪より細い線で、重力に従ってほぼ真直に落ちてきているように見える。木々は、雨に打たれて軽く梢を揺らしているだけだった。今は静かに、ただ静かに水滴は、木や草や地面のタイルを叩き、聞きようによってはそれはなにかの曲にも思えるように、ひっそりと響いている―――ほんの数分前までの狂騒の跡は全く見せず。


静かで薄暗い、建物の入り口の中で。もう少しばかり、出るのを待っていれば―――と、今更な後悔がやってきていた。
諦めて濡れて帰るしかないか……
半ば覚悟を決めつつあったところで―――


「―――どうかした?」


彼が彼女に声をかけてきたのは、そんな時だった。
顔見知りではあった。同じゼミをとっている。さっきまで共に講義を受けていた。ただし今まで事務的な会話しかしたことのない、咄嗟には名前が出てこないような相手だった。
が、彼は、


「俺、まだ用あってここにいるし、いざとなりゃ他にアテあるからさ。よかったらこの傘―――」


そう言って、一本の白い綺麗な傘を差し出してきた。


その後、彼に傘を返す時。
何故だか酷く意識してしまっていて、顔が赤くなっていたんじゃないかと、彼女は後から慌てたりした。





「ん? この傘―――ああ、前貸したやつか。
気に入ったんなら、やるよ。中古で悪いけど。
今度は簡単に折ったりするなよ―――」





秋の終わり―――


どこにでもあるような恋の始まりは、どこにでもいそうな恋人を一組作って。





幸せで、満ち足りた時間を二人は過ごし―――





そして、夏になって。


それはどこにでもあるような―――










☆         ☆         ☆










「……別れることに、しないか」


唐突に。目の前の男は、そんなことを口にしてきた。
あるいは唐突というわけではなかったのかもしれない。彼女自身、どこか小さな針でつつかれているような、嫌な空気にまるきり気付いていなかったわけでもない。


彼の部屋で。思えばこれが今日最初に聞いた彼の声だったかもしれない。そんなことを思いつく。最近は、うまくいっているとは言いにくい状況であったことは確かだった。
とはいえ。それは、やはり唐突といえば唐突な言葉だった。


心中、わずかに彼の言葉に納得している自分を感じつつも、やはり動揺して。
まりもは尋ねた。


「ど―――どう……して?」


自覚していたよりも、動揺は大きかったらしい。喉から出た声は驚くほどに震えていて、口元でつかえた。
彼は、何も置かれていないテーブルのどこか一点を見つめながら、暗い声で答えてくる。


「……別に、なんでってこともないけど。ただ、もう続けるのは無理だ。そうだろ?」
「そんなことないわ。……納得できない」


言って、不意に目頭が熱くなってきていることに気付く。まりもは意志を総動員して、それだけは自制した。泣くわけにはいかない。理由がないのだから。泣く理由なんて、ない。
ないはずだ。ないはず。なのに。
男は無情に繰り返した。こちらの言葉は無視して。


「無理だ」


込み上げてくるものを抑えるため、意識せず奥歯を食いしばることになり、咄嗟にまりもは後悔した。涙を流しはしなかったが、きっと、表情は引きつっている。


まりもは意識して、一呼吸した。


なんのことはない。不意に感じた納得している自分など、錯覚だった。その呼吸までもが震えている。それでも、できるだけその震えを押さえて―――効果があったかは疑わしいが―――まりもは聞いた。


「やっぱり……お酒?」


その言葉に、彼はこれといって反応を示さなかった。が、下に向けている視線をさらにやや俯かせたのを見てとって、まりもは実際に動作は見せず、陰鬱に頷いた。直接の原因ではない。が、無関係でもない。そんなところか。


「誓うわ。これからもう一滴も飲まない」
「まりも―――」
「本当よ。どんなに人から勧められても、ちゃんと断るから。これからずっと―――」
「まりも」


男は、より一層困ったような顔をしてみせて、しかしこちらの名を呼ぶ以外には何も言ってこなかった。なにかに耐えるように、下唇を噛みしめている。


(なによ)


平静とはいえない心境の中で、まりもは愚痴を吐き出した。


(言いたいことがあるなら、言えばいいじゃない)


それをはっきり口に出さないことが、彼なりの優しさなのだと分からないわけではなかったが。荒れた心中に感謝の意など浮かぶはずもない。


立ち上がって、口早に言う。


「明日。お昼、いつもの場所で待ってるわ」
「まりも」


彼の口調には、はっきりと否定の響きがあったが。
それには気付かない振りをして、彼女は部屋を飛び出した。


分かってはいたが、彼は、追いかけてきてはくれなかった。










☆         ☆         ☆










暑い、真夏日である。


大学は既に夏休みになっていたが、構内に用のある生徒もそれなりにいる。図書館や研究室にこもり各々の学業を進めたり、もしくは暇を持て余して冷やかしに来ていたり、サークルの集まりがあったり。等々。


というわけで。
いつもより地面に近い位置で太陽が輝いている、夏特有の強い日差しの下。
キャンパス内にはそれでもぽつぽつと人影があった。


そんな中、理学部の棟は大学内でも最も奥まったところにある。
その中の研究室の一つ―――










エアコンの音が、静かな室内に満ちている。節電のため、各部屋冷房はそれほど効かせていないはずなのだが、この部屋は違った。快適に温度が下げられた室内には、さらに扇風機が回っている。


その中で。香月夕呼は、窓際のパソコンに向かって黙々とキーボードを叩いていた。
ぽん、と軽くキーを叩くと、彼女はモニターからは目を離さず、ビーカーを手にとって口をつけた。中の黒い液体で喉を潤す。コーヒーである。この部屋にはカップがない。ビーカーをその代わりに使うのは、高校時代からの彼女の悪癖だった。同学科の人間や親しい友人たちは、始めは嫌な顔をしたものだが(当たり前だ)、皆じきに慣れた―――慣れざるをえなかった。


「で」


夕呼は一つ息を吐いて、ビーカーを置くと、その慣れざるをえなかった親しい友人を見やった。彼女の後ろの机で、友人は顔を机上の腕にうずめている。


「なんかあったの?」


聞く。
彼女の親友―――神宮寺まりもは、机にうつ伏せていた顔を、ゆっくりと上げてきた。


「……え……?」


これまた緩慢に、声を出してくる。
まりもの表情は、傍目にも憔悴して見えた。が、あくまで軽いトーンで繰り返す。


「アンタ、なんかあった?」


聞かれてまりもは、隈のせいでやけに落ち窪んだように見える目を見張ると、きょろきょろと辺りを見回した。
ひょっとしたら眠りかけていたのかもしれない。
どこか驚いた風で、今の状況を確認するようにこの部屋を眺めやると、まりもは沈んだ表情のまま、言ってきた。


「別にぃ〜……なにもないわぁ〜…………」
「全然そうは見えないんだけど」
「気のせいよぉ〜」


普段から間延び気味の口調を、さらに強調させるようにまりもは声を出してくる。
肩をすくめて、夕呼は視線をモニターに戻した。


「寝不足?」
「う〜ん…………あんまり寝てない」
「まあもうすぐだしね」
「……なにが?」
「有明で」
「違うわよ〜」
「衣装の試着に熱中していて、気付いた時には朝日が……」
「違うってば〜」
「じゃあなんで?」
「……別に〜」
「…………」
「…………」


振り返る。彼女はまた顔を机に伏せていて、こちらを見てもいなかった。まあそれはこっちも同じだが。


(まったくねぇ)


また一口、コーヒーを口にして、夕呼は大きく嘆息した。


(まあ、最近あんまりうまくいってなかったみたいだけど)


もう一度、息を吐き出して、


「ねえまりも―――」
「夕呼っ!?」


と、突然顔を上げたまりもが、慌てたように聞いてきた。


「今何時!?」


聞かれて、その勢いに押されるように夕呼はパソコンの時刻に目をやった。画面の右下に表示されているそれを告げる。


「もうすぐ十二時。なんか予定あるの?」


と、まりもはもう立ち上がっていた。急いで身支度を整えている。


「ごめん! 私、約束があるから―――」


言って、彼女は小さなハンドバッグと大振りな白い傘を持つと、飛び出すように部屋を出て行った。
ドアを勢いよく開いて、開いたところで彼女は手を離してドアから離れてしまったため、開けたそのままの勢いで戻ってきたドアが耳障りな衝撃音を立てて、閉まる。その一瞬前、ドアの閉じていく空間に、廊下を小走りに行く彼女の背中が見えた。


「…………」


とりあえず。
夕呼はしばし、まりもが出て行った部屋のドアを眺めて。


また溜息を一つつくと―――
パソコンに向き直り、作業に戻った。










☆         ☆         ☆










嵐の日だったのを、憶えている。
秋の終わり、やや季節外れの感のある、遅れた台風がやってきていた。かすめる程度だとニュースで言っていたそれは、横殴りの雨と、お気に入りの傘を折る風を伴っていて、その日は有り体に言って散々な一日だった。その時、彼に会うまでは。
同じゼミの、しかしさほど親しくもなかった彼。あの日以前に彼にどういう印象を持っていたのか、今では憶えていない。あの日が始まりだった。


彼が持っていた傘。今はまりもが持っている。大きな、淵に黒のラインの入った綺麗な白い傘。小さく、一匹のネコの影絵がついている。二人入っても肩を濡らさずにすむくらい、大きな傘。結果的に彼からの最初のプレゼントとなったそれは、女性が持つには大振りすぎたが、デザインは女性的ともいえて、まりもの次のお気に入りとなった。眩しい白色が綺麗で、それなりに値も張ったものらしく、手触りは滑るようで心地よい。


嵐の日。始まりの日。
うたた寝の中で見た夢。
夢。
夢というもの。本当に思い通りにならない。
見たいものを見せてくれない。見たくないものを見せてくる。
なにもこんな時に、あの日の夢を見なくてもいいのに。


まりもはかぶりを振って、浮き上がってくる情景を意識の隅に追いやった。


キャンパスの中央に位置する図書館。
その入り口から少し離れたところで、建物の出っ張りによりかかるように立ち、まりもは正面を眺めていた。正門に、開けたキャンパスの空間。今は数人ほどが歩いているだけだった。
待ち合わせで何度も使い、既にいつものところと呼称するようになっている場所。
中で待てばいいのにと彼は言うが、初めて待ち合わせた時は、図書館は閉まっていたのだ。彼女はその時の、彼が来るまでの不安な気持ちと、時間通りに彼の姿が見えたときの喜びとを覚えていたので、以後待ち合わせにこの場所を好んだ。もっとも彼が待つ側の時は、彼は大抵館内にいたが……


夏の厳しい日差しに身を晒し、まりもはどこともなく―――しかしキャンパスからは目を離さず、視線を動かした。
人影も、ふと消えている。と、図書館から一人、男が出てくると、なにやらぶつくさとこぼし―――聞き取れなかったが、暑いとかそんなことだろう―――顔をしかめたまま広場を抜けて、別の建物の中へと消えた。


ぼんやりと、眺める。
今は待つことの不安も、喜びへの期待もなかった。
おそらく彼は来ないだろう。そう思う。
なら何故待っているのか。何を待っているのか。


ここに彼が来て、全てをはっきりと終わらせてくれることを望んでいる。
が、同時に、絶対にそうなって欲しくはないとも思っている。


そもそも。彼にとっては、既に全部終わっていることなのだろう。昨日のことを思い返せば、それは分かり過ぎるくらい分かることではあった。原因だって、それは仕方のないことなのだとも思える。思い当たることは幾つかある。ここ最近の空気は、はっきりとこうなることを無言で知らせてはいた。
だが。
それでも、二人が別れるような事にはならないと、自分は心のどこかで根拠もなく信じていたのだ。今更そんなことを思い知る。


ぼんやりと立ちつくしたままで。
それでも浮かんでくるのは、あの日のことと、それからの幸せな日々だった。
まるで走馬灯だ。そんなことを思いついて、気付いた途端、胸が痛んだ。


(結局)


眩しすぎる光に耐えられなくなって、まりもは視線を足元に落とした。


(結局……わたしの個人的なことなんだわ。終わったってことを、ゆっくり実感して……受け入れるための環境と時間が欲しくて、わたしはここにいる)


落ち着かなかった気持ちに、少しは整理がついたのか、そんなことを自覚する。同時に、残酷なことだと自分を憐れむような気持ちまで芽生えかけていることに気付いて、まりもは傘を持った手を握りしめた。その感情を押し潰すように。


が。どう取り繕っても、こんな晴れた日にこの傘を持ってきたのは、過去に縋るためだった。否定できない。


(でも……今だけは……)


傘の、黒い柄を握る。さっきとは違う意味で。


キャンパスに目を戻した。ぽつぽつと人はいる。各々歩き去り、すぐに視界から消える。
それをまた、眺め―――と。


不意に。
唯一、絶対に視界に入れないできたものを、見てしまった。


時計。


なんということもなく、それは立っていた。黒い柱を伸ばして、丸い頭を乗せて。
見たくなかった。こうしてどれだけの時間を過ごしているのかを―――今も時間は流れているのだということを―――知りたくなかった。


汗が落ちてきても、影の角度が変わっても。
寝不足の足が音を上げてきても―――


時計を見なければ、気付かない振りができたのに。
時計が時を動かして、じわじわとしかし着実に、あの日々を過去へと―――遠くへと、追いやっていく……
そんな妄想が浮かんで。
また一つ、残酷なことを思い出す。あの時計を、今までは楽しみに見つめていた。早く約束の時間にならないか、と。


ふと。
なにか考えがあったわけでもなく。


まりもは、傘を開いて差した。


それは、夏の陽光に照らされて白く輝いた。そういう使い方をしたことはなかったが、遠目には日傘としても不自然には見えないような感じではあった。その中にいて、実際遠目に見たわけではないが。


まりもは、差した傘をやや前に傾けて、遮った。


強すぎる光と。
時計と。


色を変え、弱くなっていく光を止めて、そこに立ったまま―――
過ぎた日々を想う。


付き合い始めて八ヶ月ほど。長くもないが、それでも共に過ごしてきて、思い出せることは多かった。
なんとなく、白い傘に遮られて見えない時計のことを考える。


(なんだか羨ましいわね)


毎日を何の変化もなく、同じ所を回り続けながら、時計は時を刻んでいく。
そんな風にいられれば、きっとこんな悲しみとは無縁でいられるのだろう。
が、それでも。


(人は生きていくから―――そんなんじゃ面白くないって、夕呼だったら鼻で笑うでしょうね)


不意に友人の顔が浮かんで、思わずまりもは吹き出した。


笑った拍子に、目から涙がこぼれる。


「……あっ……」


慌てて目を押さえたが、一度こぼれたそれは、もう止まらなかった。


過ぎた日々。
刻まれる時間。
そして人は、同じ所は回れない。


だから―――だから。


だからあの日々は幸せだったのだと、今、思う。


彼女に降りかかる光と、時を動かし続ける時計とを遮って。
それでも白い日傘は、雨を凌ぐのには使えないから―――


足元の地面が、少しだけ、濡れた。










☆         ☆         ☆










香月夕呼は研究室を後にし、廊下を抜け理学部棟から出ると、ひとつ伸びをして、首を回した。


固まった体をほぐすと、もう暗くなったキャンパスを目的地へと歩く。真っ暗な中、何本か隅に立っている灯りをたよりに進み、建物の脇を抜けたら、浮かび上がるように照らされた白い傘が見えた。雨が降る気配もないが、それを差して立っている者がいる。


彼女は声をかけた。


「まりも〜。アンタ、いいかげんお腹すかない?」










☆         ☆         ☆










「……すいた」


声を返して。
振り返ると、夕呼が呆れた顔で立っていた。彼女はいつもの調子で言ってくる。



「アンタ、何気にタフよねぇ。今日みたいな真夏日に飲まず食わずで外に何時間も突っ立ってるなんて、無理よ? 普通」


その言葉に、思わずまりもは吹き出した。今度は涙をこぼさずに。
笑って、言葉を出した。


「もうくたくた。お腹もすいちゃった」
「そりゃそうでしょ」


と、彼女は肩をすくめるようにして、


「全く、アンタがフラれるのなんて今に始まったことじゃないんだから、もうちょっと器用に行動しなさいよ」


あっさりそんなことを口にする親友に、苦笑が止まらない。笑いながらも、まりもは目に力を入れて彼女を睨んだ。


「悪かったわね」


夕呼は悪びれもせず、ひらひらと手を振って聞いてきた。


「で―――もういいの?」
「ええ」


まりもは頷いて、傘を閉じた。巻いて、ボタンを留める。相変わらず滑るような手触りは心地いい。


遮っていたものを、とって―――
時計を見る。黒い時計は薄灯りに照らされながら、既に九時を指していた。


「ええ!? も、もうこんな時間なの?」


と、ますます呆れたという様に、細い視線を夕呼が投げかけてくる。


「アンタねぇ〜、時間も見てなかったの?」


その彼女の言葉には答えずに―――


思いついて、まりもは聞いてみた。


「夕呼」
「なに?」
「時計が……羨ましいって思わない?」
「……は?」


目を丸くさせる彼女に、続ける。自分でも突飛なことだとは思ったが。


「時計って、いつも同じ軌道を回り続けて時を刻んでいくでしょ? ペースもコースも、なんにも変えないで。そういうのって―――羨ましいなぁって、思わない?」


と。
夕呼は、少し考えるような素振りをしてみせた。腕を組んで、視線をあさっての方に向ける。


しばらく上を見上げてから、彼女は口を開いた。


「まあそういう気持ちも分からなくはないわね」
(え?)


予想外の答えに、今度はこちらの目が見開かれるのを感じる―――
と、夕呼は続けて聞いてきた。


「それで、まりもはそうやって生きていたい?」


その答えは。
考えるまでもなく、あったが。まりもは視線を空へと上げた。別に夕呼に倣ったわけではなかったが。


空は、何時の間にか夜空になっていた。既に太陽はなく、天球には月が浮かび、星が瞬いている。思えばこれも時計のようなものだった。いつもそこにあり、同じように回っている。瞬く星。いつもそこにある。


それを見て。傘が遮らない空の広さと、今も変わらず流れていく時間とを感じながら―――


「ううん」


まりもは首を振った。夕呼も頷いてくる。


「よねぇ。わたしもそうだわ」


人は違う。同じでは、いられない。
だから。大切だと思えるものがあるのだと、思う。


例えば空にいつも変わらず浮かぶ星を綺麗だと思えるのも―――人は同じではいられないからだ。きっと。


「さ〜て」


夕呼が腕まくりするような仕草で、白衣の袖を撫でた。


「それじゃ今夜は飲むわよ〜。教授のヤツ、研究室にいい酒隠してたのよ。わたしにバレないとでも思ってたのかしら?」
「ええ?!」


酒。流石にまりももぎょっとする。


「わ、わたし……お酒はもう……」
「何言ってんのよ。こっちは付き合ってあげようって言ってんだから。お腹もすいてるんでしょ? 研究室には酒の肴もちゃんと置いてあるわよ。最期にパーっと飲んで、パーっと忘れればいいじゃない」
「うぅ〜……」


困ったように、うめく。


結局、色々と抵抗したりはしたのだが。
親友にというよりは、食べ物に負けて。
この夜まりもは、ビーカーで夕呼と乾杯した。


























































































<人生について>







「―――ってことがあったのよ。まあこんなのは、数あるまりものフラれ話の一つに過ぎないんだけどね」


香月夕呼物理教師はそう言って話を締めると、ビーカーの中の黄緑色の液体(緑茶)を口にした。
それを見て、武も喉を潤そうと手を動かした。が、入れ物がビーカーであったことに気付き、結局それには触れずにおく。


同じくビーカーの中の黒色の液体(コーヒー)には全く手をつけずに隣に座っていた純夏が、息を吐き出しながら言った。


「意外だね〜。先生、モテそうな気がするのに」


同意して、頷く。


「ああ。それにしても―――夕呼先生」


気になっていたことを、聞いてみる。



「なに?」
「まりもちゃんって、その……そんなに酒グセ、悪いんですか?」


想像し難いことではある。
が、


「悪いぃ?」


夕呼は、なにか苦いものを無理に飲み下したように顔をしかめ、


「悪いなんてもんじゃないわよ。彼もよく頑張ったもんだと思うわ―――特に酷いのが夜の方のことなのよ」
「は?」
「まりもにお酒が入ると―――」
「夕呼おぉぉぉぉっ!!」


突然。
どばんっ!―――と、ほとんど吹き飛ぶように扉が跳ねて、叫びながら部屋に飛び込んできたのは、話題の渦中の人だった。


「な、なななな、なんの話をしているのおおぉぉぉぉっ!?!!」


武が驚いて、ぽかんとそれを見やる中、まりもは夕呼にほとんど掴みかかるように接近して、喚いた。迫られた当人は、顔色一つ変えてもいなかったが。


「アンタの大学三年の夏の別れ話。で、まりもにアルコールが入ったらどうなるかって話だったんだけど―――何? アンタ立ち聞きしてたの?」
「たまたま通りかかったら声が聞こえてきたのよおぉぉっ!! ってわたしの別れ話ぃぃぃぃ!!?」


もはや半狂乱といっても言い過ぎでないほどに狂騒し、まりもが叫ぶ。


「そうよ。あの後研究室がどうなったか、まさか忘れたわけじゃ―――」
「あ、あれは夕呼が強引に勧めたからじゃない! 大体そういえば! あの後夕呼勝手にあの傘廃棄しちゃって―――」
「何アンタ。別れた男が持ってたものなんて、後生大事にとっておきたかったの?」
「あれはそういうこと抜きにしても気に入ってたのよ!! せめて自分の手でどうにかしたいじゃない!」
「だってアンタ、まだうじうじしてたから―――」


やいのやいの。
こちらの存在も忘れたかのように、延々叫びあう―――といっても叫んでいるのは顔を真っ赤にしたまりもの方ばかりだったが―――二人の教師を見て。


純夏がぽつりと言ってくる。


「席、外そっか」
「そうだな……」


椅子の足を動かさないように気をつけながら立ち上がり、武は純夏と抜き足で扉へ向かうと、まりもが開けっ放しにしたままのそこからこっそり物理準備室を後にした。
廊下にも響く二人の声を聞きながら―――


「いや〜……なんか色々聞いちゃったけど、あの二人って昔から仲良かったんだねぇ」
「いや、仲良いっつーかなんつーか……」


廊下を進み、二人の声の届かないところまできて。


つぶやくと、武は後頭部をかきながら、喉につかえるようなものを感じつつもなんとか言い出した。


「ん〜、なんかあんな話の後じゃやりにくいんだけどな」


持っていた鞄から、一つの包みを取り出す。


「ほれ。誕生日プレゼントだ」
「へ?」


目を丸くさせる純夏にそれを渡す。
純夏は、戸惑いつつも反射的に受け取った。


「折り畳み傘だけど。おまえ、前使ってたやつ忘れて帰って失くしちまっただろ」
「だって……誕生日プレゼント? ま、まだ六月、だけど」
「そうだけどさ。もう梅雨入りだし。今渡しちまうよ。それにおまえの誕生日っていつも雨だろ? 傘は丁度いいって思ったんだよ。まあ、別にいらんっつーなら、いいけど?」


言って、純夏の手に持たせたそれを取り返そうと手を出しなおす。と、純夏は素早く後ろ手になって、バックステップでこちらと距離をとった。


「だ、だめだめだめ、ダメッ!! もう貰ったんだから、返さないよ!」


それを見て、武は苦笑しつつ嘆息した。


「ったく。なら素直に受け取れよ。いつもは強盗紛いの手段で持ってくくせに」
「……タケルちゃんが、なにも言わないうちにプレゼントくれるなんて、めったにないから……」


もじもじと言ってくる純夏を見て、武は左手を胸の高さまで挙げた。そこに付けられた、腕時計を見せる。


「ま、これがあったからな。ナイケ今年のモデル」


その腕時計を買った時。手持ちがなかったので、半額分ほど純夏から金を借りていたのだが。


「借りてた分、これでチャラな」
「ええええっ!?」
「いや、なかなか金溜まんなくて。はっはっはっ」


笑ってみせる。純夏はこちらを下から睨み上げてきた。


「なにそれっ!! ていうか、じゃあこの傘、一体どうしたのさっ!!」
「それは」
「それは?」
「家に」
「家に!?」
「転がってた」
「転がってたあぁぁぁぁっ!!?」
「……許せ……」
「許せるかーっ!!!」


本気で怒らせてしまったらしい。純夏が全力で殴りかかってくる。三十六計なんとやら―――そんな言葉を思い浮かべながら、武は全力疾走で逃げ出した。


必死で手足を振りながら―――さっきの話を思い返す。
人は時を刻んでいくなかで、時計のように変わらぬ軌跡を辿り続けることは、出来ない。
その中で。
変わるものと、変わらないものと。


純夏の拳を避けながら。ふと思う。


(俺と純夏は―――ずっとこんな感じのままなんだろうな)


きっと。おそらくは。
多分―――ひょっとしたら。


「タケルちゃんの……バカ〜〜ッ!! いっつもいっつもゲームセンターばっかりで―――」
「うるせえ! 大体その傘だって家にあったやつじゃ一番いいやつだったんだぞ!! そもそもよく傘忘れてきて失くしちまうようなやつに―――」
「そんなのこの前一回だけじゃない〜っ!!」
「………………!!」
「…………!」







梅雨に入り、季節は夏を迎えて―――
秋も、そう遠くはない。
変わるもの。変わらないもの。
望むもの。望まないもの。


とりあえず。


今はまだ―――このままで。










☆         ☆         ☆










「喉が渇いたわ……」


疲れ果てたという顔つきで、げっそりとまりもがうめく。
夕呼は、生徒二人が手をつけなかった、既に冷めかけているコーヒーの一つを彼女に差し出した。


「温める?」
「……いい……」


のろのろとした手つきでビーカーを受け取るまりもに、夕呼は呆れたように言った。


「アンタ慌てすぎなのよ。今更じゃない」
「だからって生徒に聞かれたくはないわよ〜……」


まりもは机に突っ伏すようにして、顔を沈めた。流石に教師としての沽券に関わりかねないところではあったらしい。


「ねえ、まりも」
「何?」
「結局、あの時の彼と別れたのって何が原因だったの? 本当にお酒のせいってわけじゃなかったんでしょ?」


聞いてみる。
当時から疑問ではあった。触れずにおいていたことだったが。傍目に見ていて、二人が終わるところは見てとれたが、実際のところ、今更相手の悪癖程度で簡単にどうにかなってしまうようには見えなかったのも、正直な感想だった。


聞かれて、彼女はなんともいえない表情で考え込んだ。


「一因だったのは確かだけど。実際は……こうだったから、ってはっきりは言えないわ。今だから分かることもあるけど…………まあ、人間同士だもの。色々あるわよ」
「人間同士……か。そうね」


息をつく。
今は二人とも椅子に腰を下ろしている。まりもは机に息を吹きかけるように溜息をつくと、沈んだ表情のままビーカーに口をつけた。妙に暗い。
その姿に、少しばかり怪訝なものを感じて夕呼は言った。


「ひょっとして、今の彼とヤバイの?」


と、まりもはゆっくりとかぶりを振って、


「ううん、そうじゃないんだけど―――」


途中で言葉を切って、まりもは視線を上にあげた。彼女の目線の先には時計がある。夕呼もそこに目を向けた。いかにも学校の時計というような、円形で銀色の外枠のそれは午後五時過ぎを指していた。
夏至も過ぎたばかりの今、夕暮れ時にはまだ少し早いが、やや陽光はオレンジがかってきていた。眩しい西日がこの部屋にも差し込んできている。黒い液体を入れたビーカーが照らされている。


ぽつりと、まりもは言ってきた。


「この前、彼に会ったの。たまたま偶然」


目を見張って、彼女を見る。まりもは、今は苦笑いを浮かべてこちらを見ていた。


「ホント、向こうも驚いてたんだけどね。それで―――彼、結婚したんだって。丁度ハネムーン帰りだって言ってたわ」
「……そっか。そういえば六月だったわね。そういう時期、か」


一つ、肺の隅に溜まっていた空気を吐き出して。
一つ、夕呼は尋ねた。


「未練、あった?」
「まさか」


まりもは、はっきりと首を横に振った。


「本当、良かったって思ってるわ。幸せそうだったし、そうなって欲しいと思ってるし。ただ……」


と、そこでまりもは相好を崩して、おどけるように言ってきた。


「やっぱり、そういう話聞くと意識しちゃうでしょ。結婚とか」


笑う彼女に、夕呼も笑みを浮かべて、


「すればいいじゃない。アンタ相手がいるんだし。また駄目になっちゃう前に、ちゃんと掴んでおきなさいよ」
「またってなによ。今回は大丈夫。それに、駄目になっちゃう時は、結婚していても、子供がいても、なっちゃうものでしょ?」
「まあ、確かにね」


肩をすくめる。


「でもホント、もう考えてもいいんじゃない? そろそろあの時の交際最長期間、越えるでしょ。上手くいってるんなら、いってる時に話進めなさいよ」
「う〜ん……そうね〜。それより、夕呼はどうなの? あんまり話聞かないけど」
「わたしはよろしくやってるわ。でも、今は正直言うと、男なんて人生を楽しむのに邪魔って感じね。時々遊ぶ程度が一番よ」
「……それはどうかと思うけど」


そこで会話が途切れる。
夕呼は、残っていたもう一つのコーヒーを温めなおそうと、ビーカーをアルコールランプの火にかけた。沸くまでのわずかな時間を、待つ。


ふと窓の外に視線を向ける。
何部かは知らないが、体操服で走る生徒たちが眼下に見える。と、先ほどまでここにいたはずの二人が見えた。ランニング中の集団を横にかわして、何事か言い合いつつ校門へと向かっている。


「あら。白銀君に鑑さん。あの二人、本当に仲いいわよね〜」


気付くと、いつの間にかまりもが隣から、同じように窓の外を見やっていた。


彼女の言葉どおり、いがみ合うように歩く二人は、しかし傍目には犬も食わない例のアレをやっているようにしか見えない。
武が、純夏が持っている折り畳み傘を指差して何事か叫んでいる。純夏も、その傘を大事そうに抱えつつ何か言い返していた。


それを微笑ましそうに眺めながら、まりもがぽつりと口にする。


「どれだけ悲しい思いをしても、やっぱり、人を好きになるっていいことだと思うわ。相手を大切に思えたり、必要だと感じられるっていうのは、それこそかけがえのないものだから。もっとも―――」


まりもは一旦言葉を切って、また時計に目をやった。夕呼もつられてそれを見る。
時計は当たり前に動いている。短針も長針も秒針も、それぞれの速度でゆっくりと、しかし止まることなく回っている。


「あの二人には、まだそんな自覚はないでしょうけど」


窓の外に視線を戻す。
二人の姿はもう見えなくなっていた。


「過ぎてみないと、その時間の大切さって、分からないから。ふと気付くと想い出になっちゃってるのよね。いいことも、悪いことも。だからこそ、それ全部ひっくるめてかけがえのないものなんだと思えるんだけど、ね」


静かに、独り言のように、まりもが語る。
夕呼は一つ息をついて、感嘆したように声を上げた。


「流石にフラれる経験が多いと言うことが違うわね〜。そういえば、ウチの姉さんもそんなようなことを言ってたわ」


苦笑しつつ、まりもは尋ねてきた。


「あの医者の? そういえばあのお姉さん、結婚は?」
「まだ独身よ。ま、別に姉の恋愛遍歴なんて知らないけど、今は男いなさそうね。―――それより、まりも」
「なに?」
「ウチの姉さん見てると思うんだけど」
「うん」
「そういう言い草って、年寄りくさくない?」
「……あぅ……」


傷ついたようにうめくまりもを笑って。
夕呼はアルコールランプの火を消して、ビーカーを取った。コーヒーはもう温まっている。ゆっくりとそれを口にした。
ふと、窓から風が吹き込んできた。空を見上げると、流れていく雲。遠くに見えるそれは、くすんだ灰色だった。今夜か明日、雨になるのかもしれない。


と、机に突っ伏していたまりもが言ってきた。


「それじゃわたし、そろそろ行くわ。今夜、約束があるから」


―――約束があるから


意識してはいなかったのだろうが。
あの時と同じ言葉をまりもは口にした。


立ち上がった彼女に、声をかけてやる。


「外出るんなら、傘持ってくといいわよ。今夜、雨降るかもしれないから」
「うん、ありがと。それじゃまた明日」


開いたままだった扉を閉めて、まりもは出て行った。離れていくその足音を聞きながら―――


(ホントまりもも、さっさと結婚すればいいのに)


そんなことを考える。もっとも、まだ焦ることもないのだろうが。口ではああいったが、彼女も自分もまだまだ若い。多分。
人生について。柄でもないが、ふと想いを巡らせる。
過ぎた日々と。そしてこれからと。


とりあえず。
人生は上々だ。出会いも別離も、良いことも悪いことも、生きていると色々あるが、だからこそ。これは幸せな人間の世迷言ではない。きっと。
結局のところ、どうしたところで人は生きていくのだろうから。
例えば仮に、それがもっと陰惨な世界であったとしても。


(こういう風に思うのは、姉さんの影響かしらね?)


つまりは自分もまりもを笑えない。
さっきの彼女の言葉にも、実は共感していたのだから。


苦笑をもらして。
夕呼は湿り気を呼び込んでくる風を止めるために、窓を閉めた。
静かに、時間だけが室内で過ぎていく。


「さてと」


彼女は一つ、伸びをして、


「わたしもそろそろ帰ろうかしら」


夕日は黒ずむ雲に隠されようとしていたが、それでもまだ西の地平の空は赤く輝いている。薄暮。校内にも外灯がつき始めていた。


雨が降り出すまでは、まだ間があるだろう。
夕呼はポケットの中の車のキーを確認しつつ、物理準備室を後にした。


ところで。
この後、夕呼が心配したとおり、まりもが交際期間の最長記録を更新しつつも恋人と別れたのは、それから三ヵ月後のことだったのだが―――
それはまた別の話。


























































































<再び物理準備室より>


―――ってことがあったのよ。
え? 誰に話してるのかって? アンタに決まってるでしょ、アンタ。
冒頭と話し相手が違う? 一緒よ、一緒。勘違いしちゃ駄目よ。
ま、でも安心したわ。
アンタがちゃんと自分で決めてくれて。
じゃあ―――留学手続きしておくわよ、涼宮。
ん? 今の話の意味はなんだったのかって?
要はね、アンタが色々辛い体験したとしても、
それもいつかは昔話になるってことよ。
何かあっても、それを辛い想い出のままにしておくかどうかなんて、
結局、その後のその人次第なんだから。
だから涼宮は、その決心を持って、前見て進んでいきなさい。
心配しなくても、本当、すぐ来ちゃうわよ。年寄りくさい話をする時が。
「思えば―――」って。
きっと、それが今は会えない相手でも、ね。
ま、それよりも、今はこれからよ。これから。
また妙な転校生が来たし、球技大会もあるし。色々面白くなりそうねぇ。
だから―――涼宮。
折角の人生なんだから。
アンタもちゃんと一日一日を楽しみなさい。


ああ、それと最後に一つ言っておくけど―――
わたしはまだまだ若いわよ。





(思えば貴女も若かった:終)
(マブラヴに続いてみたりする)

"thinking of your precious memories" END
to be continued to: "MUV-LUV"


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